はむはむログ

たのしい、かつ、たのもしい日記

大切なもののはなし

普通の日記です。

人間の感受点というか、喜怒哀楽の全てのポイントって微妙にズレてるものなんだけど、どうもこういう(ほぼ)単一民族国家に住んでると、そういうことをすっぽり忘れてしまうのね。
で、ある日、私の好きな人は、私のペットのことを「OO(私の名前)のお魚ちゃん」って呼んだのね。何でもない時に、「お魚ちゃんは元気?」って。それは一大事件に匹敵するほどの震動で、私はズバーっと心をさらわれてしまった気がしたのね。
他人の大切なものや大事なものを、自分のもののように大切に出来ることや、あくまで表面のポーズであったとしても、それが示せることは、とてもパーソナルな領域で受容されてるという気持ちを相手に与えると思うの。(ちなみに、こういう分析的なことは後々に行われることで、大体その場面では感激や感動の気持ちによく思考が働かない…)。それで、たまたま私がペットの不調に悩んでいた時で、もやもやもやと毎日元気の無いペットの姿を見るだけしかできない時だったから、余計にああああって思ってしまった。
女の子は大体ぬいぐるみが好きなんだけど(たぶん)、小さい頃、優しいお兄さんやお姉さんは、私の大事なものを分かってくれて、それで同じように接してくれたのね。私のおもちゃやぬいぐるみを優しく触ってくれて、一緒になって遊んでくれた。そういう優しさがほぼ癖とか習慣のレベルになってて、他意もなく性格になってしまってる人もいるんだけど、いずれにしろ、やっぱり嬉しい。心配していて黙っているよりも、その気持ちをちゃんと伝えてくれる方が、嬉しい。

けれども、それって、気持ちの純度ではなくて、あくまで気持ちを伝える技術のようなものなのかもしれない、と思うことは時々ある。不純物が混じったものが、いかにも濾過されて差し出されたように感じることは実際にある。例えば芸能人を見てると、彼らは「大衆やファンの好むイメージ」を表現したり提供することに、非常に長けてると思う。実生活の中でもそういうのが上手な人はいるの。悪いことではないんだけど、実直な人や不器用な人にとっては、表現が足りないだけで愛の深さを判断されて、少し損をしたような気分になるのね。
だから、本当の深い愛は時々、人の優しい気持ちの中に埋もれて、伝わらないままだったりする…。