はむはむログ

たのしい、かつ、たのもしい日記

かなしみはなくならないのはなし

普通の日記です。

憂うつな話が増えて申し訳ないけれども、誰にも言えないことなので、どうかお許しください。
辛かったことで泣いたりするのはあんまり無いというか、そういうのを諦めや感情の放置という形で時々押し流すようにやり過ごしていたりするんですけれども、悲しみの輪郭を表現するということは難しいことです。それは深いほどに、文字通り筆舌に尽くしがたいものとなるからです。逆に、それを簡単に表現できるのは、さほど痛みを負っていないんだと思っています。

涙はどういう時に出るのでしょうか。
昔は、悔しかった時や辛かった時にぽろぽろと泣いていましたが、今は違います。辛かったことを辛かったと自覚すること、悲しかったことの悲しさに向き合う時。あるいは、そういう本当の気持ちを誰かに打ち明けたいと思ったり、誰かの存在に心から感謝したりする時、1人で泣いてしまったりします。

ずっと何か(例えば、人、もの、企業、団体)に自分を犠牲にしていて、なぜそこまでしなければならないのだろうという疑問が生まれては、火種のように燻ったままでした。それが、どれだけ精神的に負担だったのかということに、今さら気付きました。
自分1人で生きているのではないと気付いた時から、他人のために何かすることを厭わないようになり、積極的に他人のために尽力してきましたが、人の善意にも関わらず、搾取することしか考えていない人がいることが分かりました。すべての人がそうではなく、あくまで氷山の一角の話です。どうやら、今まで善良な人々の中で生きてきたみたいです。悲しむと同時に、今まで出会った善良な人々の存在に感謝しました。

おそらく、数年経っても同じことに苦渋を味わうことになっているのかな、と思います。
こうやって時に裏切られたり、利用されたり、それで涙を流すことになっても、他者無しに自分は生きてこられなかったと思っているからです。
そして、裏切った人や利用する人に罪の意識などないわけで、犯罪をしたわけでもない彼らの道徳観を責める権利もないし、責めたくても責めたところで意味なんか無いのです。それは生まれ持った気質だとか、素質の違いからくるものだと、割り切るしかないからです。

できれば、多くの人と友好的に、仲良くやっていきたいですね。私は昔、喧嘩だの、陰湿な争いだのを沢山したので、もうそのようなことに興味は無いのと、それらが大体エゴ(自分のワガママや欲求)によるものだと思っています。モンスターなんとか然り、エゴが幅をきかせるような時代は人々の心に余裕が無いのかもしれません。あるいは、成熟が出来ていないのか…。(これに関しては私も反省です)
できるだけ穏便に、温厚にと思ってはいますが、そうはいかんざき(古い)、ということも、往々にしてあるようです。それでも、対人関係については、折衷案を考えていけるようなやり方の方が、生産的かつ創造的だと思っています。