はむはむログ

たのしい、かつ、たのもしい日記

日々の反省点 のはなし

普通の日記です。

ノートに「こういう風になる」「こうなりたい」という風に、色んなことについて目標を書いたり、失敗したら反省点をまとめて書いたりしているのですが。

「こうなりたい」ということを書いている時、自分が現在そうではないんだなと、目標や理想からかけ離れているということに気付いて、自己嫌悪になったりします。私はいつまで、違う自分を追い続けているのだろう、とか。

ある時まで、「コントロールすること」についてとても意識して生活していました。毎日、自分の中で決められたことをきっちりとやっていくことを、淡々と自分に課して、こなした場合には満足するような生活です。自分がだらしないとどこかで思っていたので、だらしなくない自分になろうとしていたのかもしれません。

その経験からすると、強く自律・自制しているくせのある人は、きっとコントロールできないことに対して、とても混乱するのではないかと思います。その中の一つの例ですが、一時期、食生活を厳密に管理していて、自分自身をきっちりコントロールすることが楽しいと思っていました。あるがままの欲求をコントロールできることが、それまでの自分にはできなかったことでもありました。不思議なことに、今は胃が悪いために消化能力が追いつかなくなって、食後すぐ寝るような生活をしない限り、「体重を減らしたいのに減らない」というようなことはなくなりました。二の腕はやたらと太くなる一方ですが。

強い自制を心掛けていた頃、必ず現れる問題というのが「コントロールできないものに対してどうするのか」ということでした。それは、運の関わるものであったり、他人や外部の意思の関わるものであったりします。私自身は、予期した通りに物事が進んで欲しいと考えていたので、突発的なことが起こると、全てがダメになったとか、極端な発想になって、どうしていいか分からなくなりしました。思考の癖というものは、一番変えにくい部分だと、本で読んだことがあります。行動は習慣づけで三週間程度で変えられますが、思考の習慣は信念体系をそっくりそのまま変えなければならないから、なかなかしぶとい。ですから、対処方法に悩んでいる時は、同じ失敗を繰り返して、大きなフラストレーションと壁を感じました。

そのうちの一つは、植物と生き物の生死でした。万事を尽くしてもこればかりは何ともならない。何回か生命の灯火の消えゆくのを見やって、ようやく人知を超えた領域というものの感覚を得ることができました。それは、私が何かに委ねるということを学んだ、大きな経験だったように思います。そして、いつか人間は必ず死ぬと思った時、まずは自分が毎日食べる食事も感謝しながら食べようと決めました。というか、いつか食事をすることもままならなくなると分かった時、そう思わざるを得なくなりました。普通の人には食べ物への感謝は当たり前のことかもしれませんが、飽食の時代に食事に感謝することができない、味の良し悪しに文句ばかり付けているような、なんとも不遜な生き方を続けていたのです。

他人の意思についても、相手に委ねることにしました。どうしても誰かの気持ちが欲しいとか、そういうことはあります。どれだけ神様に祈っても、届かない気持ちや振り向いてもらえないことはあります。誰かの為に何かをすることが無駄な努力かどうかはさておき、どうしようもならないことがある、ということを改めて感じます。人間が自律と自制を学んだ後は、それを一度手放すことと委ねることを学ぶ時期に差し掛かるのではないかと、ふと思いました。委ねることとは、自分の考える安全からはみ出すことでもあり、精神力を試されることでもあるなぁと、色々なことについて思ったりします。