はむはむログ

たのしい、かつ、たのもしい日記

しばらく関東は雨らしい のはなし

普通の日記です。
腰が痛くてしんどいです。ロキソニン飲んでるんですが、頼りになるはずなのに、なんか効きません。
悲しいことがあって、胃がしくしくして、思い出すと胸が大量の雨水に濡れる感じがします。やっぱり、胸もひんやりして、しくしくします。
悩むのは性格だから、その性格を直さない限り、悩みは永遠に続くみたいです。私の辛い悩みは、自分だけの問題じゃなくて、他人とのことです。私がいくら努力しても、改善し得ないことはあります。人間関係は相互のものだから。
その人間関係を切り捨ててしまえば、私は楽になれるでしょう。そんなことは分かっていますが、向き合わなければならない人間関係、逃げられない性質のものも、あるのです。職場や学校の人間関係に何も期待もしないし、まるで別の人種だと思っているので特に好きも嫌いも何も無いのですが(大人気ないな、と思うことはありますが、私の大事な反面教師になってくれ、私は彼らのお陰で品行方正になろうと努力する気になります)、私事では別です。
私の兄弟がなかなか親の言うことを聞かず、困らせていたことがありました。母は真面目で、また愛情深く(ただしその表現は上手くなかったかもしれない)、それゆえに兄弟のことに悩んでは、夜更けにすすり泣く声が聞こえてきました。私はただただ、母の心の痛みを自分のものに共振させて、救ってあげたいと思っていました。今の自分は、そんな母の過去の姿に重なります。

今年から珍しい夢を見るようになりました。
出産・妊娠する夢と、泥棒に入られる夢です。
子どもを産みたいという願望は今の時点でそこまで無いので、夢の中でも焦って驚いているのですが、夢占い的には吉夢らしいです。
また、泥棒に入られる夢も、吉夢とか。
起きた時の気持ちは現実かどうか分からなくて、3分くらい気が気でないのてんすが、良いことがあると信じたいです。

カロリーを摂らないとすぐに「やつれた」と言われるので、一生懸命ご飯を食べていますが、時々食欲や喜びというよりも、やつれないためという義務感を満たすために無理に食べていることがあります。それなりに、胃袋は疲れてます。
今起こる辛いことや悲しいことは、全部勉強だと思うつもりです。
同時に、やられたくないことがあるとしたら、まずは自分がお手本を示すしかないのかな、と、思っています。

かなしみはなくならないのはなし

普通の日記です。

憂うつな話が増えて申し訳ないけれども、誰にも言えないことなので、どうかお許しください。
辛かったことで泣いたりするのはあんまり無いというか、そういうのを諦めや感情の放置という形で時々押し流すようにやり過ごしていたりするんですけれども、悲しみの輪郭を表現するということは難しいことです。それは深いほどに、文字通り筆舌に尽くしがたいものとなるからです。逆に、それを簡単に表現できるのは、さほど痛みを負っていないんだと思っています。

涙はどういう時に出るのでしょうか。
昔は、悔しかった時や辛かった時にぽろぽろと泣いていましたが、今は違います。辛かったことを辛かったと自覚すること、悲しかったことの悲しさに向き合う時。あるいは、そういう本当の気持ちを誰かに打ち明けたいと思ったり、誰かの存在に心から感謝したりする時、1人で泣いてしまったりします。

ずっと何か(例えば、人、もの、企業、団体)に自分を犠牲にしていて、なぜそこまでしなければならないのだろうという疑問が生まれては、火種のように燻ったままでした。それが、どれだけ精神的に負担だったのかということに、今さら気付きました。
自分1人で生きているのではないと気付いた時から、他人のために何かすることを厭わないようになり、積極的に他人のために尽力してきましたが、人の善意にも関わらず、搾取することしか考えていない人がいることが分かりました。すべての人がそうではなく、あくまで氷山の一角の話です。どうやら、今まで善良な人々の中で生きてきたみたいです。悲しむと同時に、今まで出会った善良な人々の存在に感謝しました。

おそらく、数年経っても同じことに苦渋を味わうことになっているのかな、と思います。
こうやって時に裏切られたり、利用されたり、それで涙を流すことになっても、他者無しに自分は生きてこられなかったと思っているからです。
そして、裏切った人や利用する人に罪の意識などないわけで、犯罪をしたわけでもない彼らの道徳観を責める権利もないし、責めたくても責めたところで意味なんか無いのです。それは生まれ持った気質だとか、素質の違いからくるものだと、割り切るしかないからです。

できれば、多くの人と友好的に、仲良くやっていきたいですね。私は昔、喧嘩だの、陰湿な争いだのを沢山したので、もうそのようなことに興味は無いのと、それらが大体エゴ(自分のワガママや欲求)によるものだと思っています。モンスターなんとか然り、エゴが幅をきかせるような時代は人々の心に余裕が無いのかもしれません。あるいは、成熟が出来ていないのか…。(これに関しては私も反省です)
できるだけ穏便に、温厚にと思ってはいますが、そうはいかんざき(古い)、ということも、往々にしてあるようです。それでも、対人関係については、折衷案を考えていけるようなやり方の方が、生産的かつ創造的だと思っています。

なめるなのはなし

普通の日記です。

ストレスの大半は人間関係に起因するとはよく言いますが、人の時間を色んな意味で無駄にするタイプに切れそうになりました。
良い人生の勉強になりました。
今後は、約束を守らない人、情緒不安定な人、他者の時間感覚がない人はどんな関わりであっても、極力避けたいです。同時に、自分自身も他人のそういうことに敏感でありたいです。

「くらむぼんはぷかぷか笑ったよ」のはなし

普通の日記です。

 

夢を見ました。10年くらい前に、初めて付き合った男の子の夢です。
本当は付き合っているのか分からなかったけど、一緒にご飯食べたり泊まったりしたから、たぶん付き合ってたのかな。夢を叶えられて、おめでとう。
とにかく思うのは、その時の狭量で神経質な自分の恥ずかしい姿で、そんな面しか見せられなかったことが今は残念に思っています。
何のために人が出会い別れるのか、わからないと思うこともあるけれども、老若男女どんな人との関わりでも学ぶことがあると思う。その人から学んだことは今までの自分にとって無かった要素で、人をよく観察することと、人に対してゆとりを与えて、泳がせることの重要性みたいなことでした。
まぁ、適当な部分のある人だったと言えばそれまでなんだけれども、自他に対してゆるゆるしてる感じではなくて、他人の悪口は決して言わない人だった。

スピ系の考え方では、人と人が別れてしまう時、その人間関係での学びが終了した、みたいな解釈をします。
必ずしもそれは正しいとは思わないけれども、自分の元から離れていった人間、千切れた関係について今一度そういう視点で見てみるのも、それなりに有益かなと思います。
でも、それを言ったらずっと関わり続ける夫婦や友人間では、解決し得ない学びを持ち続けていることになるよね。
だから、ちょっとスピ系の考え方も、だいぶ方便なところはあるんだ。

 

この間の試験の採点をして、「相変わらず」よくわからないところでミスをし、つまり点を取れる問題で点を落としているということなんだけれども、それは水をいくら注いでも満ちることのない水槽みたいなもので、実はどこかに穴が開いていて、水が漏れているということです。だから水槽は満たされることがなくて、まず穴を塞いで修理すること以外に、水槽を満たす方法はありません。
同じ失敗を繰り返すのは、自分の中の重要な欠陥や欠点がある証拠で、きっと今抱えている問題を克服せずには、次のステージへと進めないんだと思います。
今はこんな風に冷静に文字を打っているけれども、採点を済ませた今日の早朝には「なんでこんな失敗を繰り返さなければならないんだ」と、泣いてしまいました。
今の私は、ダイエットみたいなものでいうと、立派な停滞期です。

 

今月は、というか先月くらいからそうだけれども、なんとなく谷底にいるような感じがします。
それでも思うのは、手をかけたことや努力をしたことは必ず現実に反映されるということです。まだ、ここに光明はあり、折れそうな心や腐りそうな信念と葛藤している感じです。
ただ、常に努力し続ける自分の姿を他人から期待されるのは本当に苦痛で、私にも休みたい時はあるし、期待されることも、休んだからといって落胆されることも、随分と身勝手なものだと思うのです。
ただ停止していたい時・現状を維持していたい時も人間にはあります。
同時に、むやみに進まないでそうするべき時もあるのです。
それを理解できる人とできない人がいて、理解できない人に言われた言葉を今さら思い出したりして、ちょっと苦しいです。

くらむぼんがプカプカ笑うと、川の谷底から泡がぶくぶくと水面へと上っていくのです。
泡の上っていった水面を見上げれば、きっと太陽の日差しが入射していて、きらきらと輝いていたに違いありません。
本でも読むことにします。

無垢な気持ちほど応援したくなるものはないはなし

普通の日記です。

今日はちょっと大きな誤解が解けました。
誤解していた自分が、なんて嫌らしい人間なんだろうと、思いました。
サポーターとかアーティストのファンの、応援する無垢な気持ちは、支えてあげたいなと思うのです。
利害にこだわってるうちは、人間としてまだぺーぺーな気がします。
損失は大局的な視点では利益にもなり得ると、私は時々言い聞かせています。

怒りと悲しみについて

「やっていいこと」と「悪いこと」の限度と区別をつけられなくなった人のことを、社会的には犯罪者と呼んだりするものですが。

私には私の人生があり、家族がいて、大切な人がいます。
私が傷付くと、傷付く人が他にもいるのです。

時々、その単純な事実すら分からないままエゴに任せて生きている人の、とばっちりを受けることがあります。
本人には全く無関係の、理不尽なものです。
誘蛾灯に群がる蛾の落とした、鱗粉を思い出します。
私は、寛容という名において悪を是認せよと謳う人間の傲慢さを、心底軽蔑しています。

 

ある個人経営者の方から、正社員に登用した男の子が翌日から逃げた(ばっくれてしまった)というお話を聞きました。
その方が相手に伝えたことには、
「業界というものは狭いもので、どこで会うのか分からない。
自分のしたことを恥じたり、負い目を感じたりしながら逃げ回るのは、さぞかし辛いことでしょう」
と。
きっと、扱うものが大きいほどに、彼のような度量の大きさを求められていくのでしょう。直接に関係した話ではありませんが、とても学ぶところの多いお話でした。

付き合う人間は、本当に選んだ方がいいと感じます。それを選べない人間にも責任があるでしょう。

非常に憤りを覚え、また、深い悲しみを覚えています。