しばらく関東は雨らしい のはなし
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かなしみはなくならないのはなし
なめるなのはなし
「くらむぼんはぷかぷか笑ったよ」のはなし
普通の日記です。
夢を見ました。10年くらい前に、初めて付き合った男の子の夢です。
本当は付き合っているのか分からなかったけど、一緒にご飯食べたり泊まったりしたから、たぶん付き合ってたのかな。夢を叶えられて、おめでとう。
とにかく思うのは、その時の狭量で神経質な自分の恥ずかしい姿で、そんな面しか見せられなかったことが今は残念に思っています。
何のために人が出会い別れるのか、わからないと思うこともあるけれども、老若男女どんな人との関わりでも学ぶことがあると思う。その人から学んだことは今までの自分にとって無かった要素で、人をよく観察することと、人に対してゆとりを与えて、泳がせることの重要性みたいなことでした。
まぁ、適当な部分のある人だったと言えばそれまでなんだけれども、自他に対してゆるゆるしてる感じではなくて、他人の悪口は決して言わない人だった。
スピ系の考え方では、人と人が別れてしまう時、その人間関係での学びが終了した、みたいな解釈をします。
必ずしもそれは正しいとは思わないけれども、自分の元から離れていった人間、千切れた関係について今一度そういう視点で見てみるのも、それなりに有益かなと思います。
でも、それを言ったらずっと関わり続ける夫婦や友人間では、解決し得ない学びを持ち続けていることになるよね。
だから、ちょっとスピ系の考え方も、だいぶ方便なところはあるんだ。
この間の試験の採点をして、「相変わらず」よくわからないところでミスをし、つまり点を取れる問題で点を落としているということなんだけれども、それは水をいくら注いでも満ちることのない水槽みたいなもので、実はどこかに穴が開いていて、水が漏れているということです。だから水槽は満たされることがなくて、まず穴を塞いで修理すること以外に、水槽を満たす方法はありません。
同じ失敗を繰り返すのは、自分の中の重要な欠陥や欠点がある証拠で、きっと今抱えている問題を克服せずには、次のステージへと進めないんだと思います。
今はこんな風に冷静に文字を打っているけれども、採点を済ませた今日の早朝には「なんでこんな失敗を繰り返さなければならないんだ」と、泣いてしまいました。
今の私は、ダイエットみたいなものでいうと、立派な停滞期です。
今月は、というか先月くらいからそうだけれども、なんとなく谷底にいるような感じがします。
それでも思うのは、手をかけたことや努力をしたことは必ず現実に反映されるということです。まだ、ここに光明はあり、折れそうな心や腐りそうな信念と葛藤している感じです。
ただ、常に努力し続ける自分の姿を他人から期待されるのは本当に苦痛で、私にも休みたい時はあるし、期待されることも、休んだからといって落胆されることも、随分と身勝手なものだと思うのです。
ただ停止していたい時・現状を維持していたい時も人間にはあります。
同時に、むやみに進まないでそうするべき時もあるのです。
それを理解できる人とできない人がいて、理解できない人に言われた言葉を今さら思い出したりして、ちょっと苦しいです。
くらむぼんがプカプカ笑うと、川の谷底から泡がぶくぶくと水面へと上っていくのです。
泡の上っていった水面を見上げれば、きっと太陽の日差しが入射していて、きらきらと輝いていたに違いありません。
本でも読むことにします。
無垢な気持ちほど応援したくなるものはないはなし
怒りと悲しみについて
「やっていいこと」と「悪いこと」の限度と区別をつけられなくなった人のことを、社会的には犯罪者と呼んだりするものですが。
私には私の人生があり、家族がいて、大切な人がいます。
私が傷付くと、傷付く人が他にもいるのです。
時々、その単純な事実すら分からないままエゴに任せて生きている人の、とばっちりを受けることがあります。
本人には全く無関係の、理不尽なものです。
誘蛾灯に群がる蛾の落とした、鱗粉を思い出します。
私は、寛容という名において悪を是認せよと謳う人間の傲慢さを、心底軽蔑しています。
ある個人経営者の方から、正社員に登用した男の子が翌日から逃げた(ばっくれてしまった)というお話を聞きました。
その方が相手に伝えたことには、
「業界というものは狭いもので、どこで会うのか分からない。
自分のしたことを恥じたり、負い目を感じたりしながら逃げ回るのは、さぞかし辛いことでしょう」
と。
きっと、扱うものが大きいほどに、彼のような度量の大きさを求められていくのでしょう。直接に関係した話ではありませんが、とても学ぶところの多いお話でした。
付き合う人間は、本当に選んだ方がいいと感じます。それを選べない人間にも責任があるでしょう。
非常に憤りを覚え、また、深い悲しみを覚えています。