はむはむログ

たのしい、かつ、たのもしい日記

おやこどんのはなし

普通の日記です。

今日の夕飯は親子丼にしました。2回目。最初は恐ろしい色になったのですが、食べてみると親子丼でした。このレシピはすごく良いみたいで、美味しかったです。他のも試そう。食べさせたい人がいて、喜んで欲しいって気持ちがあると、頑張れますね。

久々にタロットなどのはなし

普通の日記です。

私がタロットカードを買って、使い始めたのは2011年とか2010年とかそこら辺なのですが、使用しては中止を繰り返していました。その理由のひとつに、「あんまりにも当たるので、カードが怖くなる」という現象があったのです。どういうことかというと、これを聞きたい、と思ったことでスプレッドを展開すると、自分のことでも他人のことでも、まさにそのままの状況がカードに表れていたのです。ひどい時は、同じことについて何度も問い直しても、同じカードが出てきます。
そうなると、カードがただのおもちゃや娯楽ではなく、「なんだか得体の知れない力があり、それのもたらすメッセージは絶対だ」という恐怖と高揚感と信頼感の入り混じった、非常に複雑なものになるのです(おそらく、この感覚は西洋占星術でいう8室・12室的なものかな?)。知性では判断しかねるような領域です。

タロットカードは、22枚の大アルカナ、56枚の小アルカナで構成されており、全てのカードがひとつの物語の構成要素で、幸福を導くためにあると考えられています。大アルカナはすごく重要で、これが他人の気持ちや態度に出ているのなら、それ自体がとても重要なことです。小アルカナとは木の枝に付いた葉っぱの色や形を示すような、枝葉末節に近いことであり(しかし見逃していいことではない)、大アルカナは木の幹の強さや曲がり方、形状などを示すと考えています。
さて、「塔」のカードに関して、これは正位置で出ても逆位置で出ても、悲劇的なことの訪れを表すと言われています。ナポリのなんとかの塔みたいな塔に稲妻が走り、人々が空から落っこちるという、見た目にも怖い感じものです。背景なんか、黒のマーカーでグリグリ塗って、色調が絶望的に暗いです。この絵は、「バベルの塔」を書いているという解説書があり、なるほどと思いました。天に届く塔を作ろうZE!と驕りたかぶる人間に対して、神様が統一されていた言語をめちゃくちゃにした、とかなんとかいう、あのバベルの塔です。まぁ、諸説あるようです。
テキストや本によって解釈は分かれるのですが、抗えない突発的なトラブルを示す、ちょっと救いようのないカードです。もちろん、タロットカードに「救いようのない」というものはありませんが、「塔」の示す突発的なトラブルが苦手な私には、本当に苦しいカードに見えるのです。これがケルト十字の10枚目(最終結果を示す)に出てきたら、それまでの9枚にいいカードがいくら出ても、厳しいものとなるでしょう。デッキの純正の解説書にも、その10枚目を軽視しないようにと書いてあります。ですから、経験の中でしんどいカードにぶち当たるうちに、無意識あるいは意識上であれ、「嫌なカードの訪れを避けようとする」ということが始まります。「塔」以外にも、剣のカードなどは、かなりきつくて、それこそ心にグサリと刺さるものがあります。

タロットは非常に当たる、というように書きましたが、占いの中では卜占(ぼくせん)ですから、タロットは今と少し先の未来しか分かりません。四柱推命占星術、宿曜、数秘術などは、「生まれ持った何か」について占いを立てるものですが、卜占は直線上の現在と近未来の1点という限定的なものです。なぜその二つが別々に存在するかといえば、「生まれ持った何か」以上に、環境や状況が人を作るということもあるからです。環境が人を作り、人が人生を作りますから、命占だけで結論を出すことはできないんだと思います。私は同じ誕生日の人を二人知っていますが、まったく違う個性と生き方をしていると思います。ダイヤモンドが磨かれないとただの石ころであるように、環境や努力の方向性は素質を殺すことも生かすこともできます。(少なくとも、私はそう信じています)
タロットに関しては、絶対性や固定性はありませんが、水の流れや勢い、その方向を見るにはなかなか的確であるとは思います。そして、優秀な易者や占者は、結構それを上手に導いてくれます(経験上)。未来を「これだ!」と固定しているわけではなく、「こんな感じだと思うよ(ホジホジ」みたいなことを、歯に衣着せずに言ってくる、辛辣で温かい友人のようなものです。結局のところ、カードが人生を生きるのではなく、私たち本人が生きるのですから、卜占には自分の分かることをぼそぼそと耳打ちすることしかできません。
例えてみましょう。
あなたが湖のへりにある自分の小屋から、向こう側の岸まで行きたいと思ったとします。向こう側の岸には、小屋の近くでは取れない果物や植物があります。その時に、湖を真っ直ぐボートで横断するのか、ひたすら淵に沿いながら行くのか、優秀なボートの行者に任せるのか、何が道中の障害になるのか、周囲はどう反応するのか、それを示すのがタロットのようです。私はまだ歴が浅いので、それくらいの認識です、としか言えません。しかし、カードは複数でも1枚でも、状況を如実に表すようなものを持ってきたりします。同時に、本質的な理解が難しいものもあります。
例えてみたけど、そんなに分かりやすくなかったですね。
すみません。

さて、ある意味で恐怖になってしまったタロットですが、しばらく触れない期間を作ってみて、徐々にその恐怖心が克服できたように思います。卜占で「いいカードを期待する」のは、占いを立てることとしてちょっと違うということが分かりました。おみくじを引く時に、答えを期待するのではなく、ただ委ねる、という気持ちが必要なように、タロットも出現したカードをそのまま受け入れるということが必要です。その気持ちの準備が整うまで、何年もかかりました。

信じるも信じないも自由、という世界です。まぁ、この世界自体が、そして幸福と不幸自体に関してもが、個人の信念体系や信心によって決まる世界ではあります。あなたや私が目の前にある幸福を否定すれば、それは不幸です。十分すぎるほどに豊かな生活をしていても孤独を嘆く人もいれば、貧困が自分の最大の災厄であると家族で恨みつらみを言う人もいます。実際は、ただ食って寝てを繰り返し、寿命まで生きているだけです。
何のために再びタロットカードを引いてみたのかというと、ちょっと気持ちが辛いことがありました。少し前から、私が自分自身に対して、閉塞感を覚えていました。私は、状況にめげない、負けない、諦めない、希望を抱き続けたいのです。逆を返せば、今めげそうであり、負けそうであり、すべてを放棄したくなっていて、希望が遠く霞んで見えるのです。精神世界やオカルティズムに多少の興味を示したり、ゲン担ぎに頼る人の心は、そういうものです。それを否定せず、ちゃんと受け入れることから、現実に生きる力に還元できればいいし、過程の一部であると思っています。最終的にはこういう道具とか、そういうものに別れを告げるのが目標です。というか、80歳のおばあちゃんになってもタロットとかやる予定はないし、せいぜい高島暦を見て、旦那さんや孫にああだのこうだのと吹聴し、翌日にはそれを忘れてる。くらいの適当さで、楽しく暮らしたいと思っています。人間、やっぱり楽しく生きないと損だからね。

あれ、これって、うちのおばあちゃんのことかしら・・・。

しばらく関東は雨らしい のはなし

普通の日記です。
腰が痛くてしんどいです。ロキソニン飲んでるんですが、頼りになるはずなのに、なんか効きません。
悲しいことがあって、胃がしくしくして、思い出すと胸が大量の雨水に濡れる感じがします。やっぱり、胸もひんやりして、しくしくします。
悩むのは性格だから、その性格を直さない限り、悩みは永遠に続くみたいです。私の辛い悩みは、自分だけの問題じゃなくて、他人とのことです。私がいくら努力しても、改善し得ないことはあります。人間関係は相互のものだから。
その人間関係を切り捨ててしまえば、私は楽になれるでしょう。そんなことは分かっていますが、向き合わなければならない人間関係、逃げられない性質のものも、あるのです。職場や学校の人間関係に何も期待もしないし、まるで別の人種だと思っているので特に好きも嫌いも何も無いのですが(大人気ないな、と思うことはありますが、私の大事な反面教師になってくれ、私は彼らのお陰で品行方正になろうと努力する気になります)、私事では別です。
私の兄弟がなかなか親の言うことを聞かず、困らせていたことがありました。母は真面目で、また愛情深く(ただしその表現は上手くなかったかもしれない)、それゆえに兄弟のことに悩んでは、夜更けにすすり泣く声が聞こえてきました。私はただただ、母の心の痛みを自分のものに共振させて、救ってあげたいと思っていました。今の自分は、そんな母の過去の姿に重なります。

今年から珍しい夢を見るようになりました。
出産・妊娠する夢と、泥棒に入られる夢です。
子どもを産みたいという願望は今の時点でそこまで無いので、夢の中でも焦って驚いているのですが、夢占い的には吉夢らしいです。
また、泥棒に入られる夢も、吉夢とか。
起きた時の気持ちは現実かどうか分からなくて、3分くらい気が気でないのてんすが、良いことがあると信じたいです。

カロリーを摂らないとすぐに「やつれた」と言われるので、一生懸命ご飯を食べていますが、時々食欲や喜びというよりも、やつれないためという義務感を満たすために無理に食べていることがあります。それなりに、胃袋は疲れてます。
今起こる辛いことや悲しいことは、全部勉強だと思うつもりです。
同時に、やられたくないことがあるとしたら、まずは自分がお手本を示すしかないのかな、と、思っています。

かなしみはなくならないのはなし

普通の日記です。

憂うつな話が増えて申し訳ないけれども、誰にも言えないことなので、どうかお許しください。
辛かったことで泣いたりするのはあんまり無いというか、そういうのを諦めや感情の放置という形で時々押し流すようにやり過ごしていたりするんですけれども、悲しみの輪郭を表現するということは難しいことです。それは深いほどに、文字通り筆舌に尽くしがたいものとなるからです。逆に、それを簡単に表現できるのは、さほど痛みを負っていないんだと思っています。

涙はどういう時に出るのでしょうか。
昔は、悔しかった時や辛かった時にぽろぽろと泣いていましたが、今は違います。辛かったことを辛かったと自覚すること、悲しかったことの悲しさに向き合う時。あるいは、そういう本当の気持ちを誰かに打ち明けたいと思ったり、誰かの存在に心から感謝したりする時、1人で泣いてしまったりします。

ずっと何か(例えば、人、もの、企業、団体)に自分を犠牲にしていて、なぜそこまでしなければならないのだろうという疑問が生まれては、火種のように燻ったままでした。それが、どれだけ精神的に負担だったのかということに、今さら気付きました。
自分1人で生きているのではないと気付いた時から、他人のために何かすることを厭わないようになり、積極的に他人のために尽力してきましたが、人の善意にも関わらず、搾取することしか考えていない人がいることが分かりました。すべての人がそうではなく、あくまで氷山の一角の話です。どうやら、今まで善良な人々の中で生きてきたみたいです。悲しむと同時に、今まで出会った善良な人々の存在に感謝しました。

おそらく、数年経っても同じことに苦渋を味わうことになっているのかな、と思います。
こうやって時に裏切られたり、利用されたり、それで涙を流すことになっても、他者無しに自分は生きてこられなかったと思っているからです。
そして、裏切った人や利用する人に罪の意識などないわけで、犯罪をしたわけでもない彼らの道徳観を責める権利もないし、責めたくても責めたところで意味なんか無いのです。それは生まれ持った気質だとか、素質の違いからくるものだと、割り切るしかないからです。

できれば、多くの人と友好的に、仲良くやっていきたいですね。私は昔、喧嘩だの、陰湿な争いだのを沢山したので、もうそのようなことに興味は無いのと、それらが大体エゴ(自分のワガママや欲求)によるものだと思っています。モンスターなんとか然り、エゴが幅をきかせるような時代は人々の心に余裕が無いのかもしれません。あるいは、成熟が出来ていないのか…。(これに関しては私も反省です)
できるだけ穏便に、温厚にと思ってはいますが、そうはいかんざき(古い)、ということも、往々にしてあるようです。それでも、対人関係については、折衷案を考えていけるようなやり方の方が、生産的かつ創造的だと思っています。

なめるなのはなし

普通の日記です。

ストレスの大半は人間関係に起因するとはよく言いますが、人の時間を色んな意味で無駄にするタイプに切れそうになりました。
良い人生の勉強になりました。
今後は、約束を守らない人、情緒不安定な人、他者の時間感覚がない人はどんな関わりであっても、極力避けたいです。同時に、自分自身も他人のそういうことに敏感でありたいです。

「くらむぼんはぷかぷか笑ったよ」のはなし

普通の日記です。

 

夢を見ました。10年くらい前に、初めて付き合った男の子の夢です。
本当は付き合っているのか分からなかったけど、一緒にご飯食べたり泊まったりしたから、たぶん付き合ってたのかな。夢を叶えられて、おめでとう。
とにかく思うのは、その時の狭量で神経質な自分の恥ずかしい姿で、そんな面しか見せられなかったことが今は残念に思っています。
何のために人が出会い別れるのか、わからないと思うこともあるけれども、老若男女どんな人との関わりでも学ぶことがあると思う。その人から学んだことは今までの自分にとって無かった要素で、人をよく観察することと、人に対してゆとりを与えて、泳がせることの重要性みたいなことでした。
まぁ、適当な部分のある人だったと言えばそれまでなんだけれども、自他に対してゆるゆるしてる感じではなくて、他人の悪口は決して言わない人だった。

スピ系の考え方では、人と人が別れてしまう時、その人間関係での学びが終了した、みたいな解釈をします。
必ずしもそれは正しいとは思わないけれども、自分の元から離れていった人間、千切れた関係について今一度そういう視点で見てみるのも、それなりに有益かなと思います。
でも、それを言ったらずっと関わり続ける夫婦や友人間では、解決し得ない学びを持ち続けていることになるよね。
だから、ちょっとスピ系の考え方も、だいぶ方便なところはあるんだ。

 

この間の試験の採点をして、「相変わらず」よくわからないところでミスをし、つまり点を取れる問題で点を落としているということなんだけれども、それは水をいくら注いでも満ちることのない水槽みたいなもので、実はどこかに穴が開いていて、水が漏れているということです。だから水槽は満たされることがなくて、まず穴を塞いで修理すること以外に、水槽を満たす方法はありません。
同じ失敗を繰り返すのは、自分の中の重要な欠陥や欠点がある証拠で、きっと今抱えている問題を克服せずには、次のステージへと進めないんだと思います。
今はこんな風に冷静に文字を打っているけれども、採点を済ませた今日の早朝には「なんでこんな失敗を繰り返さなければならないんだ」と、泣いてしまいました。
今の私は、ダイエットみたいなものでいうと、立派な停滞期です。

 

今月は、というか先月くらいからそうだけれども、なんとなく谷底にいるような感じがします。
それでも思うのは、手をかけたことや努力をしたことは必ず現実に反映されるということです。まだ、ここに光明はあり、折れそうな心や腐りそうな信念と葛藤している感じです。
ただ、常に努力し続ける自分の姿を他人から期待されるのは本当に苦痛で、私にも休みたい時はあるし、期待されることも、休んだからといって落胆されることも、随分と身勝手なものだと思うのです。
ただ停止していたい時・現状を維持していたい時も人間にはあります。
同時に、むやみに進まないでそうするべき時もあるのです。
それを理解できる人とできない人がいて、理解できない人に言われた言葉を今さら思い出したりして、ちょっと苦しいです。

くらむぼんがプカプカ笑うと、川の谷底から泡がぶくぶくと水面へと上っていくのです。
泡の上っていった水面を見上げれば、きっと太陽の日差しが入射していて、きらきらと輝いていたに違いありません。
本でも読むことにします。