つかえるぶっきょう の話
普通の日記です。
「月刊住職」という雑誌が話題ということですが、「フリースタイルな僧侶たち」というフリーペーパーはなかなか面白いです。
普通の人(仏教や宗教に詳しくない人)でも気軽に読める内容で、なおかつ仏教の教えなどが登場します。インターネットでも読めるようになっています。
その中の、興味深かったことですが、
『お釈迦様が人を三種の文字にたとえておられるのをご存知でしょうか。
まず、怒りを岩に刻んだ文字のように覚え続ける人。
次に、怒りが砂に書いた文字のようにすぐ消える人。
最後に、水に文字を書いても流れて形にならないように、他人の悪口を聞いても少しも心に跡を留めることなく、温和な気の満ちている人です。』
『苦しみから抜け出すことは、嫌なことがあっても心に跡を留めない、水のような心のあり方です。
空虚な罵詈雑言には耳を貸さず、心を強く保つように心がけること。難しいことですが、これしかありません。』(しりとり法話バトルより、住職の稲田さんのコラム)
最近、人に対して嫌な気持ちを覚えたり、自分の誠意が伝わらなかったりということが多かったので、とてもためになる話でした。
自分の中にある巨大な怒りや鬱積した苛立ち、憎しみがあるとしたら、それは、執着している別の何かかもしれません。なぜ、それに対して執着するのでしょうか。本当は、形を変えた何かがそこにあるのではないか、そんな風に思います。
自分に対して、特別に嫌なことを言ってきたり、不快な態度を取ってくる人が実はいるのですが、それは形を変えた自己不全感というか、その応酬のつもりなんじゃないかと思います。私も、かつてそんなようなことをしていた気がします。(恥ずかしいです)
私たちのする大きな誤解に、大人であるほどに人間が完成された存在である、ということがあります。
他人の未熟さを認められないと、人間関係で行き詰まる気がしました。誰にでも不完全で学ぶべき部分があり、それは高い役職だからとか年上だからとか、関係ないです。その人が長い人生の中で学べなかったことを、今学んでいる。そういう気持ちで、嫌味だのひどい言葉などを流すことにしました。私自身も、そういう人たちへの見方を変えることを、学んでいるのだと思います。
■
昔からそうなのですが、複数の人の思惑とか強い感情とか、そういうのに巻き込まれるのが嫌です。深い関係(信頼関係のある人)なら良いのですが、普通の人間関係に関しては、もう必要以上に誰かを庇ったり守ろうとしたりするのも、やめようと思いました。疲労とストレスばかりが溜まるからです。いつも話を合わせるのも疲れるので、やめます。
同時に、人間不信が強まるようになりました。身近な人に裏切られたこともありますが、女性同士の悪口大会みたいな、そこにいない人がターゲットになるようなのを見て見ぬふりをしている毎日だからです。そういう人たちとはできるだけ関わりたくないし、ただ距離を置いて、自分のことを大切にしようと思います。
財産についてのはなし
普通の日記です。
今日、訳あって「しくじり先生」という番組を見ていたのですが、45歳で無職・ホームレスになった社長の話が、強烈なインパクトのあるものでした。「マネーの虎」という番組に出ていた有名な方なのだそうなのですが(当時、私はテレビを持っていなかった)、敏腕社長が破綻して、一から這い上がっていくという話でした。
印象的だったのは、負債総額100億円という金額よりも、信頼と人を失った時の社長の話でした。お金というものは流れるものですから、一度失ってもまた埋め合わせることができますが、信頼と人は得難く、失うと本当に辛いものです。その時の社長は麻布十番のバス停で寝てしのいでいたらしいのですが、きらびやかな街、東京の富裕層が多く住む街でホームレスになるのは、さぞプライドも傷付いたことでしょう。横になれば涙が頬を伝うような、追い詰められた心境だったそうです。
そのエピソードと、また別の事業をやり始めた時に、かつての社員263人の中からたった4人が戻ってきてくれたというエピソードの時は、本当に涙がこぼれてしまいました。それは見限ったかつての社員たちへの恨みつらみではなく、無力になった自分を信頼し、慕って戻ってきてくれたことに対する、筆舌に尽くしがたい感謝の念だったということです。私には社長業のような経験も、100億単位でのお金の移動を経験したこともありませんが、人を失うことの辛さというのは身に沁みて感じるので、強く共感せざるを得ません。
信頼と人を失うのは、本当に辛いことです。
じんせいせっけい のはなし
普通の日記です。
自分の中でどうしたいこうしたいという気持ちは固まっているのに、なんで他人の許可を得ようとしてしまうんだろうなぁ。他人からしてみれば、自分で決めてくださいよってことなのに、なんで自信を持って決断できないんだろうなぁ。
親がもう生きていなかったら、きっと気兼ねなく自分の好きなことをやっていると思うんだけどなぁ。親が生きていても、気兼ねなく、色んなことを頑張れたらいいのになぁ。
もっと自信を持って生きられたら良いのになぁ、と思うけど、今頑張ってる人たちは、自信なんか先に用意してないんだろうなぁ。ただひたすら頑張っているんだろうし、それが自信に繋がるっていう、そういうのなんだろうなぁ。
失敗ばかりすると、臆病になっちゃうんだな。だから、失敗しても挑戦できる人は強いんだろうなぁ。
今日はもう寝よう…。
■
自分が繰り返しているトラブルがあって、どうするべきか、分からない。ただ、どの環境でも、どの人間関係や組織の中でも、これに対する解決方法を見つけない限り、また同じことを繰り返すと思う。本当に些細なことがきっかけなのだけれども、そこから穴が広がる。見なくていいこと、見えなくていいことは、世の中に沢山ある。きっと私はそれなりにケチなのだ。
今一番胸の中に広がっている気持ちは、自己嫌悪だ。自分の見立ての誤り、失敗と損失について、がっかりしている。おそらく、同じことを向こうも考えているだろう。金の切れ目が縁の切れ目と言うけれども、そういう浅い縁に関して深いものと錯覚したことを、後悔した。